"フラッシュ・クラッシュ・トレーダー"と呼ばれた男はフラッシュ・クラッシュとはあまり関係なかった:高頻度取引との知られざる戦い | レポート | スパークス・アセット・マネジメント

スペシャルレポート "フラッシュ・クラッシュ・トレーダー"と呼ばれた男はフラッシュ・クラッシュとはあまり関係なかった:高頻度取引との知られざる戦い

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書籍「フラッシュ・クラッシュ」

昨年末に、「フラッシュ・クラッシュ たった一人で世界株式市場を暴落させた男」という名の書籍*1(以下"この本")が発売されました。この本は"Flash Crash: A Trading Savant, a Global Manhunt and the Most Mysterious Market Crash"*2の邦訳版で、原著のサブタイトルをあえて訳せば「トレーディングの達人、世界中から犯人探し、もっともミステリアスな市場クラッシュ」という感じなので、邦訳版とだいぶ異なります。
この本は、大規模な相場操縦を長年行った罪で捕まった個人投資家、ナビンダー・シン・サラオ(通称"ナブ")の生い立ちや、捕まった経緯、その後などを記述したノンフィクションです。他の多くの金融市場に関する一般向け書籍が、脚色が多かったり、正義・悪といった無理なレッテル張りをしたうえで物語を構築したりと、一般の方々へ誤解を招くものが多い中、この本はとても客観的、誠実にかかれている良書です。
一方で、2010年5月に米国で起きたフラッシュ・クラッシュの原因は多くの要因が複雑に絡み合っており非常に難解なもの*3ですので、当然、"たった一人で"とかありえないわけですし、実際この本でも複雑な要因を解説しつつ、むしろ、ナブはそこまで関係していなかったと述べています。しかし、相場操縦師のナブが逮捕された際、多くのメディアがフラッシュ・クラッシュの犯人を捕まえたと報じ、その後も"フラッシュ・クラッシュ・トレーダー"としてナブを紹介するメディアが後を絶たないため、このようなタイトルになっているのでしょう。
これほどタイトルに説明が必要な書籍は珍しいかと思いますが、一人の相場操縦師を追ったノンフィクションとして面白い本だと思います。映画化もされるそうですが*4、余計な脚色が加えられないよう願うばかりです。ここでは、ナブの人生にご興味を抱いた方も多いかもしれませんが、それはこの本を読んでいただくこととし、このレポートではこの本から読み取れる、相場操縦師と高頻度取引 (HFT=High Frequency Trades, 高速取引ともよばれます)との敵対関係とあるべき規制について考えていきましょう。

相場操縦に手を染めた経緯

ナブが相場操縦に手を染めたのは、当時はまだ大きな利益を稼いでいた高頻度取引業者*5が違法行為である"見せ玉"を多く行っているという誤解から、個人投資家である自分がそれに対抗するためには自分も見せ玉を行うしかないと思い込んだことからでした。自分が市場で勝てなくなると他のうまくいっている投資家がずるいことをしていると思い込んで非難し、自分の技量不足は反省しないこのような行為は、時代を問わずよく行われる愚かな行為です。ましてや、だから自分もずるいことをしても良いという考え方は最悪でしょう。
さて、多くの高頻度取引業者が見せ玉を行っていたのは誤った認識でしたが、見せ玉という違法な手法が効果抜群であったことは事実でした。そもそも"見せ玉"とは何でしょうか?

見せ玉:相場操縦が目的で、かつ、取引する意図がない注文

見せ玉とは相場操縦を行うための1つの手法です。相場操縦とは、市場において相場(市場価格)をわざと自分の有利になるように変動させて、その変動が自然な需給で発生したと思っている他の投資家を騙して、自分の利益を得ることです*6*7。このような行為は公正な価格形成を阻害し、その他の投資家に損害を与えますので禁止されています。
見せ玉は、相場操縦が目的で、かつ、取引する意図がない注文のことです。注文板上に大量に注文をおいて、他の投資家に需給を誤解させ、市場価格を操作することです。
当然ですが、相場操縦は相場の操縦を意図して行った注文にのみ成立します。そのため、見せ玉も当然、相場の操縦を意図して行った注文のみが該当します。なので、相場が操縦されておらず、単に大量にキャンセルしたとかであれば見せ玉には該当しません。

見せ玉の被害者は誰なのか?

さて、ナブが行っていた違法な取引は意外に単純なものです。すでにある程度の量の指値売り注文が出ている価格に、大量の指値売り注文を出します。最初にあった他人の売り注文がなくなる前に、つまり自分の注文が先頭になって約定してしまう前に、キャンセルし、注文を入れ直してまた後ろに並び直します。ナブの大量の指値売り注文につられて価格が下落したら、成行で買い、大量の売り注文はキャンセルし、それがなくなったことにつられて価格が戻ったら、成行で売ると言うものです。このような取引を何年も続けて儲けていたわけです。
そうすると、ひとつ疑問が湧きます。なぜこのような単純な手法で儲け続けることができたのかと。逆に言えば、この単純な手法にだまされ続けた投資家がいるということです。これは恐らく多くの高頻度取引業者がそれだと考えられます。というのも、この本によると、米当局が相場操縦の規制強化を検討し始めた際、大手の高頻度取引業者を中心に、当局に見せ玉の規制強化をお願いしていたようです。これは自ら見せ玉に弱いと宣言しているようなものです。自らの戦略の弱点がばれてでも規制強化を願いでたということはよほどの弱点だったのかもしれません。皮肉なもので、ナブが見せ玉をしていると誤解していた高頻度取引業者が、まさに見せ玉の被害者だったのです。

なぜ高頻度取引は単純な見せ玉にだまされるのか?

高頻度取引は速さを追求するため、戦略そのものは単純です*8。もちろん人は介入しませんし、速さを追求するため計算量もなるべく少なくしています。なので、人であれば簡単におかしいと分かることも、検知できずに同様にだまされ続けたのでしょう。高頻度取引の主要戦略であるマーケットメイク戦略では、急落時に他の業者よりも速く売り抜けることが重要です*8。
この急落を察知するために、ほとんど計算が必要ない手法として、注文板上の売り注文の量と買い注文の量を比較して、売り注文が多ければ急落の可能性があると判断していたのでしょう。通常の状況ならこれは成り立っているのだと思います。市場本来の目的である売買を目的とした注文だけであれば、売り注文が多くあるということは、当然、売りたい人が多いということですから。しかし、ナブのように、売るつもりが全くない、他の投資家をだますだけの注文が混ざると、需給を誤認してしまうのです。

相手が機械だからといってだましてはならない

いうまでもありませんが、相手が機械だからといってだましてはいけません。実際に日本でも、アルゴリズム取引の特性を逆手にとって誤動作を誘導したとして捕まった事例もあります*9。

相手が儲けている戦略だからといってだましてはいけない

同様にいうまでもありませんが、相手が儲けている戦略だからといってだましてはいけません。以前のレポート*10で、市場制度の発展の歴史をサッカーのルールの歴史と比べて述べました。サッカーで例えるなら、足の速い選手相手なら危険な行為で止めても良いと言っているようなものです。そのような考え方は認められるわけがありません。

相手がだまそうとしているからだまし返していいわけではない

また、当然ですが、相手が危険な行為を仕掛けてきたからと言って、危険な行為をしていいことにはなりません。審判が笛を吹くのを待つべきです。市場でも同じです。相手がずるい行為をしているからと言って、自分がずるいことをしていいということにはなりません。ましてやナブのように、それが勘違いであったらなおさらです。

新しい戦略のせいにするのは良くない

実は、自分の戦略がうまくいかなくなったとき、新しく生まれた他人の投資戦略のせいにするというのは、歴史上たびたび起きてきました。そして、多くの場合が勘違いであり、自分の戦略を向上させるのではなく、そのような新しい戦略のせいにしてきた投資家は衰退していきました。
ナブのように高頻度取引のせいにしたり、もっと最近ですと、人工知能のせいにしたりする投資家もいました。もう少し前ですと、電子取引,プログラム取引、アルゴリズムなど、言葉を変えながら、ありもしないことを声高に訴えることが行われてきました。これが個人投資家だけではなくメディアや自称有識者、自称専門家のような人たちまでも行ってきたので、とてもやっかいな現象です。
他の例として、主に商品先物を取引するファンドであるCTA(Commodity Trading Advisor)の例をあげておきましょう。CTAはかつて、多くのファンドが高いリターンを得ていましたが、2010年ごろからリターンを得るのが難しくなってきています。その原因の1つとして、そのころ増えた短期的な逆張り戦略*11がCTAを餌食にして利益を得ていると指摘する人*12もいましたが、これも誤解だったのでしょう。ちなみに私は人工市場シミュレーションを用いて、餌食にするどころかむしろ共存共栄である可能性を示した研究を次回の人工知能学会*13で発表する予定です。
また、もっと昔だと、19世紀終わりから20世紀初めにかけて活躍した伝説的な投機家、ジェシー・リバモアは「下落を仕手筋の仕業だとする考え方は、自らの頭で物事を考えようとしない無茶なギャンブラーと大差ないレベルの投機家を納得させるために考え出された方便なのだろう。」と述べています*14。100年前から同じようなことが繰り返されているのです。

ナブと高頻度取引の戦いは何だったのか?

ナブは高頻度取引が悪と思い込み、同じように悪い方法でしか勝てないという思考に陥ってしまい、犯罪に手を染めてしまいました。実際には、その悪い方法の根絶を当局に訴えていたのが高頻度取引業者だったのです。高頻度取引業者はナブのような犯罪者と、審判に訴えかける正攻法で戦っていました。しかし、ナブは思い込みによって存在しない悪と、悪に染まって戦っていたようです。

その後のナブ

その後ナブは司法取引に応じ、自分の取引手法を当局にレクチャーします。彼の手法を学んだ当局は相場操縦を多く立件できるようになりました。立件した人たちの中には銀行やヘッジファンド、高頻度取引業者の人もいました。どんな属性の投資家でもルールを守っている人は守っているし、守ってない人は守ってないということが改めて示されたと思います。そして、このことからも、ある投資家属性ごとに良いとか悪いとかレッテル張りをすることがいかに不毛であるかが分かります。
また、先の述べたように大手の高頻度取引業者を中心に当局に見せ玉の規制強化をお願いしたのは、自分たちの業界内に違法な行為をしている人がいることが許せなかったのでしょう。一部の違法な行為をする人のせいで、業界全体に悪のレッテルが貼られるのが我慢ならなかったのだと思います。

その後の高頻度取引業界:取引所と高頻度取引の接近

その後、高頻度取引業界は激しい競争により業界全体の利益は下がっていきました*5。現在は、流動性を供給する社会インフラとしての適正なコストまで業界利益は下がったと言えるかもしれません。また、これまで金融機関ではないがゆえに不透明だった高頻度取引も、登録制など各種規制の導入により、他の投資家と同じように監視されるようになりました*5。

高頻度取引の残された課題

通常、投資家の行動は何重にもチェックがかけられています。多くの投資家の場合、証券会社に注文を依頼します。証券会社はその注文が違法なものでないかチェックしています。実際、ナブも証券会社から疑わしい取引手法を何度もやめるよう言われ、証券会社を変えています。証券会社から注文を受け取った取引所も違法な取引がないかチェックしています。そして当局は最後の砦で、実際に立件する際に登場します。
しかしこの本によると、高頻度取引業者と取引所に人材の深い交流があったケースが示されており、例えば米国では、取引所のグループ会社の役員と、大手高頻度取引業者の役員に兼任が見られると指摘しています。
そして最近では、2020年9月に米国で新設されたメンバーズ取引所(MEMX)のように、新しい取引所の設立に高頻度取引業者が積極的にかかわっている事例も見られます*15。このように取引所のようなビジネスに参入しようとするのは、高頻度取引での利益が低下する一方、取引所のビジネスはデータ販売などによって伸びていること*16なども関係しているかもしれません。
いずれにせよ、高頻度取引業者と取引所の接近は大きな懸念です。取引所が完全な第三者でなくなれば、高頻度取引を厳しくチェックしている主体が1つ減り、不正のチェックが不十分になる恐れがあります。チェックは公平になされるべきです。サッカーで例えるならば、一部の選手だけ副審に見られていないというような状況は許されません。そういう選手は主審が見ているから大丈夫、とはならないでしょう。全員が同じように審判たちから見られていないといけないのは、市場でも同じです。
まだこのような状況にはなっていないかもしれませんが、そのような状況になってしまったときのために、今からルールを考えておく必要はあるかもしれません。


(*1) リアム・ヴォーン 著、岡村桂 訳、"フラッシュ・クラッシュ たった一人で世界株式市場を暴落させた男"、KADOKAWA、2020

(*2) Liam Vaughan, "Flash Crash: A Trading Savant, a Global Manhunt and the Most Mysterious Market Crash in History", William Collins, 2020

(*3) "Findings regarding the market events of May 6, 2010", Report of the staffs of the CFTC and SEC to the joint advisory committee on emerging regulatory issues, 2010

(*4) "Dev Patel to Star in 'Flash Crash' for New Regency and See-Saw", The Hollywood Reporter, 2020/2/19

(*5) ちなみにHTF業界全体としては2009年ごろまでがピークで現在は利益が下げ止まっている状況です。参考文献として、
水田孝信, "高頻度取引(3回シリーズ第2回):高頻度取引業界-競争激化と制度・規制の整備-", スパークス・アセット・マネジメント スペシャルレポート,2019年5月8日

(*6) 水田孝信, "人工知能が不公正取引を行ったら誰の責任か?", スパークス・アセット・マネジメント スペシャルレポート,2020年8月4日

(*7) 相場操縦の詳しい定義は以下参照

(*8) 水田孝信, "高頻度取引(3回シリーズ第1回):高頻度取引とは何か?", スパークス・アセット・マネジメント スペシャルレポート,2019年4月3日

(*9) "金融庁、アルゴリズム取引悪用の相場操縦で課徴金命令", 日経新聞, 2011年2月16日

(*10) 水田孝信, "なぜそれらは不公正取引として禁止されたのか?", スパークス・アセット・マネジメント スペシャルレポート,2020年9月15日

(*11) Raschke, B. L. and Connors, A. L., "StreetSmarts: High Probability Short-Term Trading Strategies", M. Gordon Publishing Group, 1996
邦訳: 世良敬明, 長尾慎太郎, 鶴岡直哉 訳,"魔術師リンダ・ラリーの短期売買入門",パンローリン, 1999

(*12) Clenow, F. A., "Following the Trend: Diversied Managed Futures Trading", Wiley, 2012
邦訳: 長尾慎太郎監修, 山下恵美子 訳, "トレンドフォロー白書分散システム売買の中身",パンローリング, 2014

(*13) 2021年度 人工知能学会全国大会 (第35回), 2021年6月8日-11日

(*14) Lefevre, E., "Reminiscences of a Stock Operator", Wiley, 1923
邦訳: 林康史訳, "欲望と幻想の市場-伝説の投機王リバモア",東洋経済新報社, 1999

(*15) 大崎貞和, "米国における新しい株式取引所の開設", 大崎貞和のPoint of グローバル金融市, 野村総合研究所, 2020/10/22

(*16) 川本隆雄, "米国株式市場の分散化と市場データ問題~日本への示唆~", 資本市場研究会, 2020年3月号



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