SPECIAL REPORT

お金とは何か?-古代の石貨から暗号資産まで-

水田 孝信

水田 孝信(ミズタ タカノブ)

● 経歴
・2002年東京大学大学院理学系研究科修士課程修了。
・2004年同研究科博士課程を中退しスパークス・アセット・マネジメント株式会社入社。
 クオンツアナリストなどを経て2010年よりファンドマネージャー。
・2017年度より上席研究員兼務。
・2014年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。博士(工学)。
 同年より東京大学公共政策大学院非常勤講師。
・2016年度より人工知能学会金融情報学研究会幹事。

● 受賞歴
・2010年度および2012年度、人工知能学会研究会優秀賞。
・国際学術会議 IEEE Conference Computational
 Intelligence for Financial Engineering and Economics 2014
 にて3rd place award受賞。

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日本銀行貨幣博物館の入り口:石貨はお金なのか?

日本銀行金融研究所貨幣博物館*1には、手荷物検査を終え階段を上ってすぐのところに、ヤップ島で使われていたという大きな石貨が展示されています。石貨という名前なので確かにお金だとも考えられていて、実際にモノの購入に使用され、価値の貯蔵というお金の基本的な機能を果たしていたと考えられています*2。しかし一方で、こんなに大きくて重たいものは日常的に運べなかっただろうし、とても不便だったでしょう。むしろこの石そのものが芸術品のような価値があって、貴重なものと物々交換をしていたのではないだろうかと思わせます。だとすればお金ではないのでは?と思ってしまうのです。そのためこの石貨を見ると「お金とは何か?」という根本的で重要な問題を思い起こさせてくれます。貨幣博物館の入場者が最初に見る展示物としてこれ以上ふさわしいものはないでしょう。
以前、「なぜ株式市場は存在するのか?」と題したスペシャルレポート*3でお金はなぜ存在するのかを簡単に説明しました。今回は、もう少し深くお金の機能を考え、株式投資とは何なのか、最近登場した暗号資産(以前は仮想通貨とよばれた)はどうなっていくのかのヒントを得たいと思います。

お金は自然発生する

お金の歴史を紐解くと、1971年にアメリカがドルと金の兌換を停止するまで、お金とモノは完全に分離したものではありませんでした。この時までアメリカが行っていた金本位制は、ドルと金を交換することができるわけですから、お金は金というモノの交換券や預かり証だとも考えられ、ある意味モノとも言えます。お金とモノが完全に分離したのはごく最近であり、時代を遡れば遡るほど、その区別はあいまいなものとなります。このことがお金の起源をはっきり決められない要因なのでしょう*4。
古代以前では多くの場合、お金を作ろうと思って作ったわけではありませんでした。モノを交換するうちに、欲しいものを手に入れるためには誰もが欲しがるものを交換用に持っていた方が便利だと気付き、そのままお金になる場合が多かったのです。つまり、自分にとっては特に必要があるわけではないが、多くの人が欲しがりそうなモノを交換用に蓄えておくのです。それをみんなが便利だと思い始めるとそのモノはお金として流通し始めます。古代では先に紹介した石貨のほかにも貝殻や木の実、稲束、手斧などもお金として使われました。つまり、お金とは自然発生的なのです。そして、多くの人が便利だと思ったものがお金になるのです。

お金が誕生した時

いくつか例を見てみましょう。「おさるのジョージ」という子供向けアニメで「こんがら交換」*5という話があります。おさるのジョージは物々交換でカートを手に入れようとします。カートを持っている人はポニーのおもちゃとなら交換してもよいといいますが、ジョージはポニーのおもちゃを持っていません。そして、ポニーのおもちゃを持っている人はおもちゃの家を欲しがり、ジョージはおもちゃの家を作ることにします。自分は特に欲しくもないおもちゃの家を交換のために作り始めたのです。そしてカートとの交換に必要なポニーを手にしたころ、カートは別の人に渡ってしまい、、、というお話です。お金が仲介しない交換がいかに不便であるかをうまく表現しています。そして、交換のためだけにおもちゃの家というモノを作るといった、まさにお金の発明前夜を思わせる話だと思います。
日本では弥生時代から江戸時代までコメがお金として機能していました。特に弥生時代は稲束がほぼ唯一のお金だったようです*6。中国でとれる青銅の原料をもらうために、交換に稲を差し出しているうちに、稲束がお金のような機能を持ち始めました。日本ではその後、後述するように貨幣が使われるようになりますが、江戸時代までは、特に商業地以外では、並行してコメがお金の機能を果たすことになります。
第2次世界大戦中のドイツにあった捕虜収容所に囚われたイギリス人のRadfordによれば、収容所内では葉巻がお金として機能していたそうです*7*8。収容所には食料、煙草、衣服といったものが赤十字から配給されていましたが、これらを囚われていた人たちの間で物々交換するうちに、葉巻が交換時に渡すものとして便利だと皆が感じ、お金のようになっていったようです。
このようにお金とは、その時々でモノを交換している人たちが「便利だと思ったモノ」がお金になるのです。お金を作り、管理するのは、モノを交換している人たちを支配している、おさるの飼い主でもなく、古代の豪族でもなく、収容所の看守でもない訳です。この法則はとても狭い範囲や大昔だけの話ではありません。我々になじみのある日本の歴史からあと2つほど例を出してみましょう。

中世アジア:宋銭の世界

日本では平安時代だった12世紀半ばから戦国時代の16世紀半ばまで、中国のお金を使っていました*1。特に中国の宋の時代に作られた「宋銭」は長い間使われ、宋が滅んだあとも日本で流通しました。宋銭は歴史学上まだ分かっていないことも多くいろいろな学説がありますが、以下、書籍「宋銭の世界」*9を参考に述べていきます。
実は、宋銭はアジアの多くの国で使われていました。ある意味国際通貨だったのです。宋は大きな国ですから、宋が周辺国に押し付けたと思われるかもしれませんが、実態は逆だったようです。宋は宋銭の流出を禁止していたにも関わらず、周辺国の商人たちが便利だと思い、どんどん持ち出していったのです。宋の政権には、宋銭をコントロールできていなかったといえます。国際通貨にしようと企画した人は誰もおらず、使う人が便利だと思って広がった結果なのです。
日本側でも当時の政権は宋銭を使おうと思っていたわけではありませんでした。それどころか、国内で宋銭が流通していることにすら、初めは気づいてなかったようです。人々が便利だと思い使い始めた宋銭を政権は後から追認したり、禁止したりしますが、禁止しても流通は止まらなかったようです。どんなお金が流通するかは政権の意向は関係なかったのです。政権はお金に関してほとんどコントロールできてなかったと言えます。
なぜ周辺国の人々が宋銭は便利だと思ったのかは謎です。そもそも銅が欲しかったのだが、銅貨である宋銭を銅として持って帰ろうとしたのかもしれません。宋では偽の宋銭を作らせないために銅の保有を禁止していたため、銅と言えば宋銭しかなくなったというのもあるかもしれません。銅はそれ自体に価値があるため、お金として信頼がおけるというのもあったかもしれません。当時は、というより1971年のドルと金の兌換停止までは、自分が持っているお金がいつ流通しなくなるのか分からないという不安が付きまとっていたため、お金自体にモノとしての価値が求められました。宋銭を溶かして銅にした場合、その宋銭と同じ価値を保ったかは議論が分かれていますが、何の価値の裏付けもない紙きれではだめだったのは事実でしょう。
また、デザインも重要です。実は日本では8世紀の奈良時代、国内で作られた硬貨が流通していました。「和同開珎」はその代表格ですが、歴史の授業でも出てきたので覚えている方も多いでしょう。しかし9世紀になると国内で銅が取れなくなり、だんだん、硬貨の大きさが小さくなったりデザインが悪くなったりしました*1。鉛が混ざるなどお金のモノとしての価値が下がったのもありますが、見た目がお金らしくない、というのも使われなくなった理由のようです。その後、政権が強制的に硬貨を使わせようとしますが、宋銭が入ってくる12世紀半ばまでは、コメや絹がお金として使われました。宋銭はお金らしいデザインをしていたのでしょう。

江戸時代:コメの預け証

江戸時代になると幕府が貨幣を発行し、それまでよりは安定して機能し、便利で安心なものになりました。とはいえ、今よりは不便なもので、貨幣は金貨、銀貨、銭貨に分かれ交換レートは日々刻々と変化しました*1。今風に言えば国内で3つ通貨が存在するようなものでとても不便だったでしょう。また、江戸時代までコメはお金として機能し続けました。コメを持ち運ぶのは大変なので、コメを倉に預けている証である「預け証」が紙幣のように機能しました。また、貨幣との交換を約束した紙幣も登場しました。ただ、幕府だけでなく旗本や公家、寺、鉱山、宿屋など、さまざまな発行体が存在し、発行体ごとに信用できるかどうかを考える必要があり、不便でした。持っていないコメの預け証を大量に発行する藩もあったようで、信用不安が広がるとコメと交換してもらおうと商人たちが藩主に押し寄せる騒ぎもあったようです*10*11。
このようなこともあり、まだまだ庶民には紙幣は広がらず、物体事態に価値が認められる貨幣を中心に使っていました。江戸時代の庶民の旅では、貨幣を大量に持ち歩く必要があり、大変だったようです*9。忠臣蔵で有名な赤穂浪士も、討ち入り前に立ち寄ったそば屋で、47人分の二八そば(1杯16文)の代金を1文玉752枚で支払ったことを示す「二八そば七百八十はらひ」*12という江戸川柳も残っています*9。現代の感覚だと752枚もコインを持ち歩いていることが異常ですが、このころはそれが普通だったのです。

歴史上初めて紙切れだけがお金となった

お金の歴史は紆余曲折あったものの、少しずつ、より便利で、より安心できるものになりました。1971年のドルと金の兌換を停止までは、お金はモノとしての価値が求められました。それほど人々はお金というものに信頼を置いていなかったわけです。そのせいで、そのモノが不足した時、つまり、銅やコメそして金などが不足した時は、必要な量のお金が供給できないという問題が、歴史上何度も生じたわけです。しかし、金との兌換が停止され、ついに、モノの価値という裏付けのない、しかしその代わりに、必要な量のお金を供給できるお金だけが流通するようになったのです。「管理通貨制度」の始まりです。ここではじめて、本当の意味でのモノと完全に分離したお金の歴史が始まったと言えるでしょう。歴史上初めて、人間は、ただの紙切れに価値があると信じられるようになったのです。
「お金がすべて」と言う人がいます。しかしどうでしょうか?お金の歴史を知ると、その価値は常に疑われ続けたものであって、過去のお金に比べ現在は、むしろ紙切れなのではないかとすら思ってしまいます。むしろ、なぜ、このような紙切れに価値があるとみんなが信じていられるのか、そちらの方が不思議になってきます。
現在の管理通貨制度は必要な量のお金を供給できるという長所を持っています。このおかげで経済・金融は安定したと言えるでしょう。かつてのように、急にお金が使えなくなったり、他のお金が突如流通し始めたり、さまざまなお金が乱立したり、価値が安定せず急激なインフレやデフレに襲われたり、そういうことはなくなりました。これは歴史上かつてない良い状況であり、人類の劇的な進歩と言えるでしょう。
しかし、完全な管理通貨制度になってからの日は浅く、歴史は短いです。このままうまく機能し続けるのか、それとも、ここまでは偶然うまくいっていただけなのか、それは誰にも分かりません。通貨をどのように管理し、どのような財政・金融政策を行えば、お金の価値が維持され、経済活動を支え、お金を使う人たちの利便性を損なわないのか、まだまだ分からないことは多いです。平成・令和の時代になっても、初めて経験する事態ばかりに直面し、試行錯誤で対応しているのです*13。

投資とは何か?

投資とは何か?いろいろな答えがあると思います。ここまで見てきたお金の歴史、お金の性質を振り返ればさらに本質的な答えが見えてくるかもしれません。投資とは、「長期間守っておきたい財産のうち、価値が良くわからないお金を、価値が良く分かるものに交換しておくこと」と言えるかもしれません。昔の人は、お金が急に使えなくなる恐怖を常に感じていたため、さまざまな工夫をして財産を守っていました。今は、お金には絶対的に価値があると錯覚している人が多いため、先人たちの知恵が見過ごされているかもしれません。お金の歴史を振り返り、価値とは何かを考えていくと、お金の価値より企業の価値のほうが断然分かりやすく、確実に存在する価値であると思えるでしょう。

暗号資産(仮想通貨)は普及するか?

ここまで長々とお金の歴史を振り返り、お金の性質を考えてきました。それはこのレポートの本題である暗号資産(かつては仮想通貨とよばれていた)が今後どうなるかを考えるためです。とはいえ、お金の歴史を知れば結論は明らかではないでしょうか?少なくとも「現在存在する」暗号資産の中から、一般に普及するものはでてこないと断言できそうです。私たちが日ごろ使っている円より便利で使いやすいでしょうか?老若問わず円より使いたいと思えるでしょうか?円より価値が安定していて安心できるものでしょうか?経済・金融に経験のない事態が発生した時、円より柔軟に供給量を調整できる仕組みでしょうか?
暗号資産の中には、「政府の規制を回避しやすい」という理由で、違法な商品を売買するのに使われたり、資本規制をすり抜けたりするのに「便利だ」として広がったものもあります*14。確かに、現在流通している通貨より「便利な」点は違法な取引をしやすいことだけかもしれません。もちろん、違法な取引で使われ始めたお金が、後に一般にも広がるというケースは考えられますが、それでも現在の一般のお金を超える安定性や便利さがなければそうはならないでしょう*14。

暗号資産を研究する日本銀行

日本銀行金融研究所では暗号資産をかなり研究しています。理由は2つ考えられます。1つ目は、暗号資産が円の競合になるのかどうかの調査、2つ目は、暗号資産の技術の中に円にも使える便利な技術があるかどうかの調査です。どちらかと言えば、後者の理由が大きいのではないかと思います。
日本銀行金融研究所貨幣博物館には「欲の戯ちから競」という錦絵が所蔵されています。日本銀行の広報誌*15や貨幣博物館の管内の解説ビデオでも重要なものとして紹介されています。1880年(明治13年)に描かれたこの錦絵は、西南戦争後に発行量が増えた政府紙幣に対する信頼が揺らいだため、コメがお金として復活しそうだという様子を風刺しています。なぜこの錦絵が日本銀行にとって重要かと言えば、まさに、この時の政府紙幣への信頼低下が日本銀行の設立につながったからです。政府紙幣に変わる、信頼される紙幣として日本銀行券を発行するために日本銀行が設立されたのです。日本銀行は、自分たちが発行している日本銀行券が、便利で価値が安定しているものであり続けるための努力を怠れば、政府紙幣と同様にコメにとって代わられてしまう恐れがあるという緊張感をもっているのだと思います。
先ほど、暗号資産が一般に流通することは「現在存在する」暗号資産に関してはなさそうだと書きました。これはあくまでも「今のところ」ということであり、今後は分かりません。画期的な暗号資産の発明や、既存の暗号資産の劇的な改善が今後あるかもしれません。日本銀行金融研究所はおそらく、今後、暗号資産の分野でお金にとって非常に便利な技術が発明されるかもしれない、もし円でも使える技術なら先回りして採用したい、と思って研究しているのだと思います。常に、一番便利で、一番安定していて、一番安心できる、他の追随を許さないお金としてあり続けるための努力の一部なのでしょう。

日本銀行貨幣博物館の出口に書かれた決意

さて、貨幣博物館の見学も終わり、そろそろ帰ろうとすると、出口付近に「大勢の人が『これはお金だ』と思うものが、その時代、その地域で『お金』として使われてきました」と書かれていました。この言葉は「貨幣博物館常設展示図録」の最後の方のページにも載っています*1。お金を使うみんなが、安心して、便利に使えるお金であり続けるためには、多くの努力が積み重ならなければならない、さもなければ、また昔のように価値が不安定となり、いろいろなお金が流通し、不便で混乱した社会になってしまう、そのような緊張感をもって責務にあたっているのでしょう。出口付近に掲げられたこの言葉から、強い決意を感じました。



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(*1) 東京都中央区日本橋にある日本銀行本店の隣にある。入場は無料で土日もあいている(月曜日および年末年始は休み)。詳しくは、 https://www.imes.boj.or.jp/cm/(2020年6月現在)
 また、展示品の一部は市販されている「貨幣博物館常設展示図録」(ISBN: 978-4-88786-068-1)でも確認できます。以下のサイト上で読むこともできます。
https://www.imes.boj.or.jp/cm/collection/tenjizuroku/mod/book/


(*2) Sehgal, Kabir, “Coined: The Rich Life of Money and How Its History Has Shaped Us”, Grand Central Publishing, 2015, (邦訳:小坂恵理、“貨幣の「新」世界史”、早川書房、2016)


(*3) 水田孝信、 “なぜ株式市場は存在するのか?”、 スパークス・アセット・マネジメント スペシャルレポート、2018年5月21日
https://www.sparx.co.jp/report/special/2174.html


(*4) お金の起源という意味では、硬貨や紙幣が発明される前にモノや役務の貸し借りを記載した借用書が発明され、お金のような機能を果たしていたという有力な説があります(*2に詳しい)。そのため、お金の起源は物々交換を円滑にするための何らかの物体ですらないのかもしれません。


(*5) シーズン5第4話。米国での放送日は2010年9月7日。日本においては、いくつかの動画配信サイトが吹き替え版を今でも配信しています。話の概要はこちらに記載されています。 
http://blog.livedoor.jp/eikuuru2/archives/65837450.html


(*6) 北條芳隆 編・著、”考古学講義”、筑摩書房、2019


(*7) McMilan, John, “Reinventing the Bazaar”, A Natural History of Markets, WW Norton & Company, 2002, (邦訳:瀧澤弘和、木村友二、“市場を創る―バザールからネット取引まで”、 NTT出版、2007)


(*8) Radford, A.R., "The Economic Organisation of a P.O.W. Camp", Economica, 1945


(*9) 伊原弘 編、”宋銭の世界”、勉誠出版、2009


(*10) 高槻泰郎、“大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済”、 講談社、 2018


(*11) 日本取引所グループ、”日本経済の心臓 証券市場誕生!”、 集英社、 2017


(*12) なぜ「七百八十はらひ」が752枚支払ったことを示すのか疑問に思われた方もいるでしょう。以下*9に基づいて説明します。当時96文を一束にして100文として数える「短陌」(short string)という習慣がありました。このように96文を束ねることによって100文として使える場合もあれば、このそば屋のようにあくまでも96文としてしか使えない場合(調陌)もあったようです。この江戸川柳では、96文の一束を100文と数えて、7束+80枚(=7束×96文+80文=752枚)を780枚と数えて読んでいるわけです。このことからも、一人一人が16文ずつ出したのではなく、初めから96文が束になっていて、それが7つあったことを示しています。ちなみに「二八そば」は、2×8=16から由来して16文のそばのことを指しています。赤穂浪士は47人なので16文×47人=752文で計算が合っています。


(*13) 小峰隆夫、”平成の経済史”、 日本経済新聞出版、 2019


(*14) 丸山俊一、 NHK「欲望の資本主義」制作班、 “岩井克人「欲望の貨幣論」を語る”、 東洋経済新報社、 2020


(*15) 清木たくや、“日本銀行誕生秘話--「中央銀行ナル者ハ一国金融ノ心臓ナリ」”、日本銀行 広報誌「にちぎん」、No.5、2006年春号
https://www.boj.or.jp/announcements/koho_nichigin/backnumber/05.htm/



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