なぜそれらは不公正取引として禁止されたのか? | レポート | スパークス・アセット・マネジメント

スペシャルレポート なぜそれらは不公正取引として禁止されたのか?

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なぜそれは不公正取引なのか?

以前のレポート*1では、不公正取引には、インサイダー取引や相場操縦などがあることを述べましたが、なぜこれらの行為を禁止しているのかまでは議論していませんでした。ゲーム理論を駆使した経済学の大家であったジョン・マクミランは、これまで人類が作ってきたさまざまな市場を分析した上で、"市場はそれがうまく設計されたときにのみ、うまく機能する"と述べました*2。株式市場においては、これらの不公正取引を禁止しないとうまく機能しないのです。なぜ、うまく機能しないのか?これらを禁止しなかったせいで、うまく機能していなかった株式市場を見るのがもっとも分かりやすいでしょう。
株式市場は少なくとも17世紀には存在していましたが*3、これらの不公正取引が禁止されたのは20世紀も半ばになってからのことです。例えば日本においては、インサイダー取引が罰則規定も整備され本格的に禁止となったのは1988年です*4。長い株式市場の歴史から考えれば、実はそんなに昔のことではないのです。不公正取引が禁止される前の株式市場をみることで、これらを禁止した理由を探っていきましょう。

20世紀初頭の株式市場

19世紀末ごろから20世紀初頭にかけて活躍したジェシー・リバモアという伝説的な投機家がいました。彼にまつわる本はいろいろあるのですが、ジャーナリストのエドウィン・ルフェーブルが書いた、基本的にはフィクションで彼をモデルにした小説"Reminiscences of a Stock Operator"*5(以下、この本)が、もっともリバモアの取引手法や心理状況を詳細に記述しているといわれています。この本は人物名や企業名など固有名詞は創作の部分がありますが、具体的な取引戦略がどのようなものだったか知るにはとても良い本です。100年近く前に書かれたこの本は、現在でも、投機家たちの間で必読書として扱われているようです。
この本ではリバモアがマニピュレーター(相場操縦師)を行った事例をいくつかあげています。いずれも1915年からこの本が出版された1923年までのできごとと思われます。米国で本格的に不公正取引の対策が始まったのは1934年*4なので、まさにこれらの取引を平然と行える最後の時代でした。そもそも、相場操縦師なるものが平然と存在していることが、現在では信じられない状況です。しかしながら当時は、相場操縦は投資技術のひとつであると考えられていたようです*3*5。そもそもダメなことだと多くの人が思ってもいなかったのでしょう。

1つ目の事例:相場操縦師の仕事

1つ目の事例を簡単に説明しましょう。リバモアはある日、ある銘柄の売却を手伝って欲しいと頼まれました。頼んできたのはその銘柄のインサイダーの人たちでした。この本にははっきりとは書かれていませんが、つまり、創業者や、創業時の出資者、経営者などでしょう。そのインサイダーの人たちは自分たちの持ち株を売りたいのだけれども、この銘柄の日々の売買があまりにも少なく売れそうにありませんでした。インサイダーの人たちの持ち分は、全部で発行済み株式数の70%にも及んでいました。
現在の感覚で考えれば、売り出しを行って広く買い手を探すといった方法しかないだろうと思われます。しかし、当時の感覚は全く違うのです。当時の常識では、まず初めに、この銘柄を買うのです。インサイダーたちはリバモアに買付資金を差し出し、リバモアは価格が大きく変動するタイミングを見計らって買います。その銘柄が欲しいのではなく価格を動かすのが目的です。この本には「売りと買いを交互に実施するプロセスを繰り返しながら、その間、常に相場を担ぎ上げていかなければならない。」と、はっきり書かれています。
もっと言うならば、リバモアが頼まれたのは売却作業ではありません。「ひと相場作って欲しい」と頼まれたのです。"ひと相場"はつまり、株価が上昇して、かつ、多くの株数を売却できる活況な相場、ということです。相場操縦に他なりません。これが相場操縦師の仕事なのです。

2つ目の事例:少し奇妙な現象

2つ目の事例は、少し奇妙なものを紹介します。やはり、インサイダーの1人に売却するための"ひと相場"を作ることを依頼されたリバモア。1つ目の事例と異なり他にも大株主がいそうだということで、リバモアはあらかじめ調査し、あと3人大株主がいることを見つけました。
"ひと相場"作っている途中でその3人の誰かが売却を始めると"ひと相場"作ることが困難となり、そのインサイダーだけでなく、3人の大株主も損をするとリバモアは考えました。そこで、3人に相場操縦の計画をすなおに打ち明け、"ひと相場"作るまで売らない約束を取り付けました。この3人にとっても、"ひと相場"作ってもらった方が自分たちの利益につながるのです。
その後、リバモアは時間をかけ慎重に相場を分析していました。そんな分析の日々が続いたある日、急にこの銘柄が活況となり大きく上昇したのです。リバモアは何も売買していなかったのですが、"リバモアが相場操縦をしている"という噂が広がっていたのです。リバモアは自身に問い合わせが多く来たため、この噂の存在に気づきました。リバモアはこれをチャンスととらえ、依頼された株数を数日かけてすべて売却しました。"相場操縦している"という噂だけで実際に相場操縦が完了した奇妙な現象が起きてしまったのです。
しかしこの話にはさらなる後日談があります。実はこの噂を流したのは、依頼者以外の3人の大株主のうちの1人だったのです。しかも、実際にはリバモアはまだ買いを入れてないことを察知したその人は、リバモアはここから買ってくると勝手に思い、さらにこの銘柄を買い込んだのです。実際にはリバモアは買わなかったため、"さらなる上昇"は起きず、結局その人は大損をしてしまいました。

3つ目の事例:インサイダー取引に倍返し

3つ目の事例は、バブルの歴史を振り返った本、" Devil Take the Hindmost: A History of Financial Speculation"*3からです。これまでの2つの事例より半世紀ほど前の、1860年代の話です。この時代、鉄道がひかれ始め鉄道株がブームとなっていました。鉄道会社に許認可がでると株価が大きく上昇しました。当時の鉄道への期待は現代では考えられないくらい過剰なもので、鉄道によって「全世界が一つの偉大な家族になり、一つの言語を話し、同じ法則の下で結束し、一つの神を崇める時代が到来するのを見ることができるかもしれない。」という人もいたくらいだそうです*3。
さて、アメリカのある市で路面電車を走らせる認可が出たことにより、鉄道株が軒並み急上昇しました。しかしその後、この認可がそのうち取り消されることを知った市議会議員たちの一部が結託し、大規模にある鉄道株に空売りを仕掛けます。市議会議員という強い立場ゆえに知った、当局公表前の情報を使った空売りであり、今でいうインサイダー取引なわけですが、当時は普通のことだったようです。
しかし、この鉄道株を多く保有していたある投機家はこの動きを察知して、逆に買い占めを始めます。このような非公開での買い占め行為も現在ではできないのですが、当時はこれも普通のことだったようです。買い占めによって、空売りを仕掛けた市議会議員たちは窮地に陥ります。株価が上昇して損をしただけでなく、この投機家がほとんどの株を保有することになったため、空売りした株の買い戻しがでず、借りた株が返せなくなったのです。市議会議員たちはこの投機家の言い値で買い取るしかなくなってしまいました。その言い値は、市場でついていた価格よりもさらに高かったそうで、破産したものもでたとか。まさに、倍返しされてしまったのです。

近代と現代の違い

話は少しずれますが、この言い値で買い取らされたというのも、この時代ならではかもしれません。現代と比べて、この時代、つまり近代の大きな特徴だと思うのですが、契約は絶対だという考え方が強かったようです。あとから考えてどんなに不条理なものでも、あらかじめお互いが合意した契約なら守るべきという考え方が強かったように思います。
空売りしていた株が知らないうちに1人に買い占められてしまった場合、というのは現代では起こりえない状況ですが、この時代でもあまり想定されていなかったのではないかと思います。この時代は、あまり想定していなかった事態でも、あくまで契約通りに決着させることが絶対だという考え方だったようで、空売りのために借りた株はどんな事情があっても、破産したとしても、返さなくてはならないという考え方だったのでしょう。

"良い"市場とは?

これらの事例を見るとひどい市場だなと感じる人も多いでしょう。一方で、これらの時代は、規制やルールは少ない方がよく、市場参加者たちの自由競争によって良い市場は作られると考えられていました。そのため上記のような例があったとしても、自由な競争の結果だから、これが良い市場と考えていた人たちも多かったようです。そもそも"良い"市場とはどのような市場でしょうか?ある意味哲学的ともいえるこの問いを考える必要があります。

市場が提供すべき機能

そもそも市場は何のために存在しているのでしょうか?つまり、社会にどのような機能を提供しているのでしょうか?これについては以前レポート*6に書かせていただきましたが、簡単に言えば、価格発見機能と流動性の供給です。
価格発見機能とは、その株式の適切な価格を見つけることです。そもそも株価とは、企業の価値で決まるべきです。株式をすべて買うと企業を保有することになりますので、株式を買うということは企業の一部を保有することになります。企業の一部を保有するのですから、株価は企業の価値によって決まるべきです。これまでの事例はどうだったでしょうか?企業の価値とは全く関係のない、操縦された価格で、多くの市場参加者が売買してしまっています。価格発見機能が損なわれていたのです。
流動性とは、売買したいときに、価格を大きく動かさずに売買できるかどうかを意味します。流動性が高いと、価格を大きく動かさずに、売買したいときに売買できます。流動性が低ければ、売りたいときに大きく割り引いた価格でしか売れなかったり、買いたいときに大幅に高い値段で買わされたりします。1年まてば適切な値段で売買できる、であれば流動性は低いと言えます。つまり、いつでも、適切な価格で、多くの量を売買できるかどうかが流動性です。
そのため、価格発見機能が機能していないと流動性は意味を持たないことが分かります。いくら多くの売買ができても、価格が発見されていない、適切な価格で売買されていなければ、意味がないのです。そのような状況は流動性があるとは言えません。本当は100円くらいの価値があるものを、「1円でいくらでも買い取りますよ」と言う人があらわれても流動性を供給しているとは言えないですよね。
そのように考えると、これまでの事例は市場が提供すべき機能を全く提供していないことが分かります。市場がこれらの機能を提供できるようにルールが必要なのです

公正でないと取引参加者が集まらない

価格発見機能、流動性の供給、この2つを維持するためには多様な取引参加者が取引に参加する必要があります。偏った人たちだけが取引を行うと、適切な価格が発見できませんし、参加者が集まらず流動性も向上しません。多様な取引参加者に参加してもらうには公正である必要があります。参加者みんなが公平に戦えるということです。簡単に言えば、"ずるい"ことができないということです。ずるい方法で利益を出す人がいると、それができない人たちは不満に思い、取引に参加しなくなります。この"ずるい"を排除するために規制やルールが必要なのです。

ずるいとは何か?スポーツの例え話

しかし、この"ずるい"は取引参加者がずるいと感じるかどうかにかかっていて、理論的に決められるものでもありません。何をずるいとするか、ずるいとは何か、みんなはどんなことをずるいと感じるのか、という哲学的な問いが必要になるのです。それがないと公正とは何なのかが決まらないのです。
最初に紹介した経済学者のジョン・マクミランは大著*2において、「フットボールの歴史は市場発展のモデルとなる」として、市場をうまく設計する重要性をサッカーやラグビーのルールの発展を例にして説明しています。
19世紀初頭、まだサッカーとラグビーに分かれる前の"フットボール"は、2つのチームに分かれ、ただボールを敵の陣地に運ぶというゲームでした。ボールに人が集まり、力ずくで奪い合う、そんなゲームだったそうです。体格が良い人だけが活躍でき、それ以外の人は茫然と眺めているだけのゲームだったと述べられています。その後、「一国を統轄する団体であるフットボール協会が1863年に、ラグビー・フットボール連合が1871年に設立され、ルールを制定し」、半ばケンカの延長のようだったゲームが、秩序だった、技術が強調されたゲームへと進化しました。体格がいいだけで勝てるゲームではなくなり、足の速さや、ボールを扱う技術が問われるゲームへと進化したのです。サッカーやラグビーがやって楽しい、見て楽しいものになるためには、適切なルールが必要であったことは自明でしょう。
ここで、"体格がいいだけで有利"はずるいと判断したことになります。体格だけを争うゲームではなく、技術を争うべきだという哲学があったのです。これは理論的に自明というわけではありません。実際、体格だけを争う競技は存在します。そういう競技をやっている人たちにとっては、体格がいいだけで有利になることは、ずるいわけではありません。また、サッカーとラグビーでも温度差はあります。サッカーは接触プレー全般が禁止され、より体格差が有利にならないルールですが、ラグビーはタックルや押し合いなどは許されていて体格が良い方が有利な面が残されています。
サッカーとラグビーはともに、この時からオフサイドのルールがありました。オフサイドは、簡単に言えば、"待ち伏せはずるい"という考え方からできたルールです。ゴール前での待ち伏せを許すと、背が高いことがとても有利となり、足が速いことがあまりメリットにならなくなります。そして、人がフィールド全体に広がらず、見ていて面白くなくなってしまいます。このオフサイドというルールの微調整はその後何度も行われ、21世紀になった現在でも行われています。サッカーでは2005年、オフサイドの比較的大きなルール改定がありました*7。それは、より面白くするため、よりみんなの公平感を得るため、必要な作業なのです。

普遍・不変ではないずるいの基準

例えば、バスケットボールは比較的、背が高い人が有利なことを許容しているスポーツと思います。しかし、バスケットボールはサッカーに比べ時間稼ぎには厳しく、24秒ルールや8秒ルールが設定されています。一方、バスケットボールもサッカーと同様に待ち伏せはずるいと考えていて、体格がいい人が待ち伏せして守ることを行いにくくするために、ノーチャージ・エリアが設定されたりしています*8。
このように、より面白くするため、よりみんなの公平感を得るため、という共通の目標ではあるものの、それを実現するための"何がずるいか"に関してはスポーツごとに違いがあります。また、同じスポーツでも時代によって変わっています。
金融市場においても、何がずるいと考えられているか、それはどういう考え方に基づいているか、考えていきましょう。スポーツの例を見て分かるように、ずるいの基準は普遍・不変ではない訳ですが、例えば、待ち伏せはずるいと考えられることが多い、足が速いのはずるいとは考えられることは少ないなど、より普遍・不変にずるいと考えられているものがあります。そういうものを、金融市場でも探ってみましょう。

立場によって不利がないこと

金融市場においては、予測能力が高いとか、よく勉強していることをずるいとされることはほぼないと思います。しかし、その立場だから得られる情報を使うとずるいとされます。つまり、立場によって得られる情報に不利がないことを重視していると思います。情報は公平に得られるべき、だけれどもそれを使った解釈、予測の能力は争うべき、と言えるのではないでしょうか。
どんな立場の人もチャレンジできる、それが金融市場の魅力であると感じている人が多いのでしょう。それがあるから、多様で多くの人が取引に参加しているのだと思います。中国からアメリカに渡り、1960年代に活躍したジェラルド・サイというファンドマネージャーは、この仕事に就いた理由として、「人種にかかわらず公平に戦える仕事だったから」と答えています*9。すべての取引参加者が公平に戦える、立場を利用してずるいことをする人は許さない、そういう哲学が金融市場には流れているのだと思います。

各規制はこの哲学に基づいている

これでインサイダー取引が禁止されている理由が分かったと思います。議員だけが知っている情報で議員が取引するのは、その立場にいることを利用したずるい取引なのです。相場操縦も、操縦者だけが操縦された価格であることを知っているという意味では、同じ考え方で禁止されていると分かるでしょう。実際、相場操縦は「その相場をあたかも自然の需給によって形成されたものであるかのように装い、他人を誤認させ」ることを、ずるいの理由としています*10。こっそり買い占めることが禁止されているのも同様の理由でしょう。これらの規制には、立場によって不利がないこと、その立場でないと知りえない情報を使わせない、という考え方が流れています。

速いはずるいか?

以前、高速取引(高頻度取引)について書きました*11。このような速い取引をずるいと言う意見があります。この考え方は一理ありますが、広がりを見せていません。高速取引がずるいので取引をやめる人がそこまで多くなかった、というのが"今のところの"結果です。実際、高速取引をセンセーショナルに批判した書籍"フラッシュボーイズ"*12に登場し、実際に存在するIEXという取引所は、高速取引をあえてできなくし高速取引を締め出す工夫をしているのですが、そこまで取引シェアを伸ばせていません*13。なぜでしょうか?
そもそも、ずるいのを認めない理由は、ずるい人がいるとみんなが参加したくなくなり、参加者が減り、市場が提供すべき価格発見機能と流動性の供給ができなくなるからです。しかし、高速取引は、価格発見機能を提供するまでは行かないものの大きく邪魔をしているわけでもなく、流動性は供給をしているとの評価が多く*11、歓迎している取引参加者が多いのでしょう。
また、流動性を供給している高速取引を締め出すと、単純に彼らが供給していた流動性が減少してしまいます。そして、その立場にいないと使えない情報も特にないというのもあります。さらに、高速取引は機材をそろえれば誰でも参入できますし、非難されるほどの利益は出せなくなっていて、適切な水準に収まっているというのもあるでしょう*11。
サッカーに例えれば、とても足が速い選手が現れた、という程度の話でしょうか。
このように高速取引は締め出すべき程ずるいかと言えば、そうでもない、というのが今のところの結論だと思います。しかし、これらは今のところの評価であり、ずるい手法が発明されればこれらの評価は変わるかもしれません。

近代のケンカみたいな市場から、現代の秩序だった知恵が戦う市場へ

最初にいくつかあげた19世紀から20世紀初頭の近代の事例は、サッカーの歴史を思い出せば、ケンカみたいな市場と言えるでしょう。無秩序で何でもありの市場は、ボールの近くにいる体格のいい人だけが利益を得られ、他の人たちは戦うすべがない市場でした。現代の金融市場は、適切にルールが整備され、誰でも公平に情報が得られ、それらの情報の上で、秩序だった、知恵同士が戦う、公正な市場であると言えるでしょう。金融市場のルール設計に完全はありませんし、終わりはありません。これからも、多くの人たちの努力により、少しずつ改善していくものなのです。


(*1) 水田孝信、 "人工知能が不公正取引を行ったら誰の責任か?"、 スパークス・アセット・マネジメント スペシャルレポート、2020年8月4日

(*2) McMilan, John, "Reinventing the Bazaar", A Natural History of Markets, WW Norton & Company, 2002,
邦訳:瀧澤弘和、木村友二、"市場を創る―バザールからネット取引まで"、 NTT出版、2007

(*3) Chancellor, Edward, "Devil Take the Hindmost: A History of Financial Speculation", Farrar Straus & Giroux, 1999
邦訳:長尾慎太郎 監訳、山下恵美子 訳、"新訳 バブルの歴史-最後に来た者は悪魔の餌食" 、パンローリング、 2018

(*4) 小谷融、 "証券不祥事と法規制 -インサイダー取引規制-"、 大阪経大論集、 67巻、 2号、 p. 167-、 2016

(*5) Lefèvre, Edwin, "Reminiscences of a Stock Operator", Wiley, 1923
邦訳: 林康史 訳、"欲望と幻想の市場-伝説の投機王リバモア"、 東洋経済新報社、 1999

(*6) 水田孝信、 "なぜ株式市場は存在するのか?"、 スパークス・アセット・マネジメント スペシャルレポート、2018年5月21日

(*7) "2005年のオフサイドルールの改正とモダンサッカー", pal-9999のサッカーレポート, 2012年1月11日

(*8) "NBAノーチャージ・エリアって何のためにあるんですか?", Yahoo Japan! 知恵袋,2008年6月21日,

(*9) Brooks, John, "The Go-Go Years: The Drama and Crashing Finale of Wall Street's Bullish 60sz", John Murray, 1999
ちなみにジェラルド・サイの投資手法はウォーレン・バフェットの真逆で、バブルに乗る手法であると書かれています。

(*10)

(*11) 以下の3本。
"高頻度取引(3回シリーズ第1回):高頻度取引とは何か?"

"高頻度取引(3回シリーズ第2回):高頻度取引業界-競争激化と制度・規制の整備-"

"高頻度取引(3回シリーズ第3回):高頻度取引ではないアルゴリズム取引と不公正取引の取り締まり高度化"

(*12)Lewis, M., "Flash Boys: A Wall Street Revolt", W. W. Norton & Company, 2014,(邦訳版) 渡会圭子, 東江一紀 訳, "フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち", 文藝春秋, 2014年

(*13)



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