市場は効率的なのか?検証できない仮説の検証に費やした50年 | レポート | スパークス・アセット・マネジメント

スペシャルレポート 市場は効率的なのか?検証できない仮説の検証に費やした50年

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市場が効率的とは何なのか?

市場は効率的なのか?という議論がよく行われています。私もさまざまな方々から時々聞かれます。工学系の大学の先生に聞かれることもあれば、同業者の方から、「実際には効率的とは思えないけど、学術的にはどういう結論になってるの?」といった聞かれ方をすることもあります。
市場が効率的かどうかに関心が集まるのは、効率的だとアクティブリターンが取れないのではないか、という考え方があります。非効率性があるからこそアクティブリターンが取りえるのだという考え方です。
この論争は2013年にノーベル経済学賞を受賞したFamaが、約50年前の1970年に、「価格が利用可能な情報を完全に反映させる市場を効率的とよぶ」*1と記したことから始まりました。そして、実際の市場が効率的であるという仮説を"効率的市場仮説"とよびます。この定義は今でも広く用いられています。簡単に言うと、例えばある株式の価格は入手可能な情報はすべて折り込み済みなので、何を調べてもまだ株価に折り込まれていない情報はない、ということになります。

徒労だった50年間の論争は終わりそうにない

その後現在まで、市場は効率的なのかという論争はまったく決着がついていません。非常に多くの研究者がさまざまな方法で効率的市場仮説の成否を検証し、成立・非成立のいずれの結果も多く出されました。なぜ、同じ実際の市場を検証対象にしているのに、結論が一致しないのでしょうか?例えば万有引力の法則は、まだ仮説だった時代は"万有引力の仮説"とでもよばれていたのかもしれませんが、この仮説を検証するために誰がどのように物体の落下の様子を見ても、まっすぐ地面に落ちていくという結論のみが得られるのに、なぜ、市場効率性仮説は観測した人によって結論が変わってしまうのでしょうか?いったい、この50年間、先生方は何を議論していたのでしょうか?

意外に少ない「なぜ結論がでないのか」という研究

一方で、これだけ重要な問題で50年間も論争が混とんとしているにも関わらず、そもそも「なぜ結論がでないのか」という研究はとても少ないです。日本語でこれに関して述べた数少ない文献の1つが、慶應義塾大学の伊藤幹夫教授によって書かれています*2。この文献は確率過程という高度な数学と現代の科学哲学(科学的な手法とはどういうものか論じる学問)の論考を組み合わせた非常に高度なものですので、一般の方が読むのはとても難しいです。ここでは、この文献を参考にしつつ、私の考えを、間違いや誤解を恐れずに大胆に、一般の方が読めるように書くことにチャレンジしてみます。

効率的市場仮説は検証できる仮説に発展してこなかった

まず、最初に結論を書くとすれば、「効率的市場仮説は検証できる仮説ではない」という一言に尽きると思います。もう少しいうと、本来なら検証できる仮説に発展・修正されるべきなのですが、それを拒んでいる、または、そういう発想がない研究者が多いということでしょう。

仮説の発展とはどういうことなのか?

仮説が発展するとはどういうことなのでしょうか?自然科学においては仮説が発展して検証可能になっていく過程があることを、科学がどのように発展してきたかを研究していたLakatosが明らかにしています*3。先の伊藤教授の文献ではこのLakatosを引用しつつ、原子質量に関する仮説がどのように発展したかが書かれていますが、この例えはちょっと難しいので、史実とは異なりますが万有引力の例で説明したいと思います。
万有引力の法則とは、「2つのものがあったら引っ張り合う」というものです。地面にものが落ちるのはなぜかと言えば、地球とものが引っ張り合っているからです。地球は非常に重たいので少ししか動かず、もののほうが軽いので大きく動くため、落ちているように見えるのです。
さて、この「2つのものがあったら引っ張り合う」という仮説はどうやって検証すれば良いでしょうか?この仮説のままだと、検証方法がいろいろ考えられすぎますし、どういう観測結果なら「引っ張り合っている」と言えるのかがよく分かりません。もし、この段階の仮説をみんなが検証し始めたら、さまざまな方法、さまざまな結果、さまざまな解釈が生まれ、混乱だけが生じて、検証には至りません。まさに市場効率的仮説がいま陥っている状態です。
実はこの「2つのものがあったら引っ張り合う」という仮説は「地球より十分軽いものであれば、地球上では、重さにかかわらず同じ速さ*4で落下する」という仮説を含んでいます。つまり、もし先の仮説が成り立つなら後の部分仮説が成り立つはず、という部分に落とし込めるのです。市場効率的仮説はこのような落とし込みがこの50年間一度もなされていません。
さらに「重さにかかわらず同じ速さで落下する」という仮説は、実は成り立っていないことが分かります。羽のような空気抵抗が大きいものと鉄球のような空気抵抗が少ないものでは明らかに落下速度が異なるのです。そこで、仮説を修正する必要があります。つまり、「空気抵抗が無ければ、重さにかかわらず同じ速さで落下する」と修正されます。このような修正も市場効率的仮説にはなされたことがありません。
「空気抵抗が無ければ、重さにかかわらず同じ速さで落下する」までくれば、何が観測されれば良いかが明確になります。つまり、空気抵抗が少ない軽くて小さい鉄球と、大きくて重たい鉄球を高いところから落として、同時に地面に着くか調べれば良いのです。同時に着けば仮説成立、同時に付かなければ仮説不成立です。この実験はガリレオ・ガリレイがピサの斜塔で行ったという逸話がありますが、後世の作り話と言われています*5。また最近は、空気抵抗が全くない真空内で羽根と鉄球を落として同時に落ちることを確認した実験もあります*6。
このように仮説が検証されるためには、仮説自体が検証できる仮説になるために、科学的に検証できる形に落とし込まれたり、修正されたりしなければなりません。効率的市場仮説はこのようなことが、この50年間一度もなされていません。それが50年間の、市場が効率的かどうかの議論が徒労であった理由でしょう。

形式的には発展があったが

上記では分かりやすくするために効率的市場仮説に発展がなかったと記述しましたが、形式的にはなかったわけではありません。そのうちのひとつの発展として、「価格過程はマルチンゲール性を持つ」があります。ただ、この発展によっても仮説が検証しやすくなったわけではないことと、そもそもこの発展には無理がありました。この発展は候補の1つでしかない訳ですが、これが唯一の発展、もっと言えば、初めのFamaの仮説である「価格が利用可能な情報を完全に反映させる市場を効率的とよぶ」と同じであると考えている研究者が多いことが、市場効率的仮説の議論が進まない理由の一つであると、先の伊藤教授の文献は述べています。他の発展が試みられていない、ということです。
さて、この「価格過程はマルチンゲール性を持つ」のマルチンゲール性ですが、数学的に難しい概念なのでここでは詳細は説明しません。誤解を恐れずに非常に簡単に言えば、確実に勝つ方法もなければ、確実に負けるわけでもないゲームの得点の推移、というものです。例えば、コイン投げを何度も繰り返し、表が出れば一点もらえ、裏がでれば一点減点されるようなゲームの得点の推移がマルチンゲール性を持ちます*7。

価格だけから効率的かどうか議論するのは無理がある

まずこの発展に無理があることを述べたいと思います。これは先の伊藤教授の文献では触れられていない論点です。「価格が利用可能な情報を完全に反映させる」から「価格過程はマルチンゲール性をもつ」にはひとつ大きな飛躍があります。前者は情報が価格に折り込まれているかどうかという、情報と価格を扱っているのに対し、後者は価格しか見ていないからです。
株価というのは企業の価格です。その企業にどれくらいの価値があるかは人によって異なります。例えば、その業界の素人が企業を完全に買い占めても、配当や解散時に残った資産を現金化したものしか価値を見出せないでしょう。ところが、似たような事業をしている人からすると、完全に買い占めたことによって得られる、もとからやっている事業との協力関係(いわいるシナジー効果)や、自身が取締役になることによって得られる情報やデータなどにも価値を見出せるでしょう。
今、前者にとっての価値が100円、後者にとっての価値が200円だと完全に分かっているとしましょう。そして、後者は絶対に買わないと決心していると全員が分かっていたとします。その時は、株価は100円でずっと推移するわけです。ところが、ある瞬間、後者が買う決意をしたとします。そして、そのお気持ちの変化を全員が瞬時に察知したとします(そんなことがあり得るのか?という話は横においておきます)。すると、途端に株価は200円になるわけです。この状況は「価格が利用可能な情報を完全に反映させる」を完全に満たしており、効率的と言えます。
ところが、これが「価格過程はマルチンゲール性をもつ」と分かるでしょうか?つまり、ずっと100円だったものが急に200円になった株価チャートを見ただけで、確実に勝つ方法がなかった、などと言えるでしょうか?ここはやはり、200円で買うというお気持ちの変化を誰も予想できなかった、という情報がないと議論できないのではないかと思います。
この例は完全な絵空事ではありません。実際、子会社化を目指したTOBの時などには見られる株価の動きです。このとき株価の動きだけから、効率的だったかどうかなど議論できるでしょうか?

高いリターンには、いくらでもいちゃもんをつけられる

また、上記のような飛躍を認めたとしても困難は残ります。実は、Fama自身がその後、小型株のほうが大型株よりリターンが高いことを見つけました*8。これが先のマルチンゲール性とどう結びつくかは、本来は議論があるべきで、仮説のさらなる発展・修正が必要なのですが、そこに関してはあまり議論がありませんでした。そして、いきなり仮説の成否が議論されてしまったわけですが、このリターンに関しては2つの解釈に分かれました。素直に考えれば、小型株のほうがリターンが高いわけですから、確実に勝つ方法を見つけたと解釈できるかもしれません。これをもって、市場は効率的でないという主張が現れました。いわいるアノマリー説です。
一方で、Fama自身を含め、それでも市場は効率的であると主張した人たちも現れました。小型株はリスクが高いのでその対価としてリターンを得ているだけであり、リスクあたりのリターンは変わらない、という主張です。いわいるリスクプレミアム説です。
確かにこの仮説のままだと、どちらの解釈も可能です。この事実からは市場効率的仮説の成否は分からない、とも言えますが、そもそも仮説そのものが検証可能なものではない、という疑いを持てる事例であるともいえます。
今の市場効率的仮説は、どのような観測事実が出てきても、いろんな解釈によって成立しているとも成立していないとも言えてしまうのが問題なのです。つまり、仮説自体がまだ検証可能ではないのです。
もう少し極端な例ですと、バブルとバブル崩壊も、企業が過大評価されているのではなく、一時的に実際に企業の価値が増大し、その後下落したとして、やはり市場は効率的だと主張する人もいます。さらに極端な例ですと、フラッシュクラッシュは、不安定な市場環境によって一瞬だけ企業の価値が減少し、その後不安定な市場環境が解消して企業価値がもとに戻った、だから市場は効率的だという説明も不可能ではありません。いくらでも市場は効率的だと理屈がつけられてしまうのです。

そもそも市場の法則は保たれていない

もっと深刻な問題があります。それは、市場を支配する法則は一定ではないということです。ある時期は市場が効率的でもその後も効率的であるとは限らないということです。物理学ではこのようなことはあまり起きません。万有引力の法則は今後も成り立つでしょうし、地球が誕生したころも成り立っていたと考えられています。しかし、金融市場の場合は、その保証はありません。今成り立っている法則は今後成り立つがどうか分からないのです。このように、過去から未来に繰り返し同じ法則が成り立つことを"斉一性原理"とよばれます。自然科学はこの原理を前提として理論を構築しているのに対し、金融市場を初め、経済学が対象としている多くの現象、もっと言えば、社会科学が対象としている多くの現象で、斉一性原理が成り立っていません。なので、本来はそもそも科学的なアプローチができるのかどうか、というところから議論が必要なのです。
先のFamaが主張した「小型株のリターンが高い」という"法則"も時代とともに変わっています。もちろん、小型株のほうがリターンが低い時期もあります。今後、どうなるかは分かりません。また、国や地域によっても異なるでしょう。このような一時的にしか成り立ってないかもしれない事実を、自然科学の"法則"のように扱うことは本来できないのです。
経済学や社会科学において、自然科学のように「この法則は絶対に成り立っているはずだ」という主張を見かけたら注意しましょう。

では、効率的かどうか議論できないのか?

それでは、市場が効率的なのかどうか議論はできないのでしょうか?先の伊藤教授の文献には、相対的な議論ならできる可能性があると主張しています。つまり、市場は効率的か、非効率かということは言えないけれども、過去のこの時期に比べ、今のこの時期は効率性が上がった、といった相対的な議論はできるかもしれないと述べています。確かに、そもそも、すべての情報が株価に折り込まれていることも、株価に全く情報が折り込まれていないも考えにくいです。常にその中間にあり、折り込まれている情報もあれば、折り込まれていない情報もある、折り込まれ具合も銘柄によって異なるし、時期によっても異なる、そのように考える方が自然でしょう。
これこそが、効率的市場仮説が発展・修正されるべき方向性と言えるかもしれません。つまり、市場を支配する法則や、常に備えている性質などはなく、市場ごとに、時期ごとに情報の折り込まれ具合を計測する、という議論になっていくべきなのかもしれません。

同じような問題は経済学、社会科学全般に蔓延している

同じような問題は経済学、社会科学全般に蔓延しています。そんな中、不毛な議論が50年も続いている効率的市場仮説は、不毛な議論が発生し継続するメカニズムを理解し反省するのに優れた題材かもしれません。いったい、なぜこのような徒労が発生し続いてしまうのでしょうか?アクティブリターンは取れるのか、市場は効率的なのか知りたいという多くのニーズがあることが根本的な原因かもしれません。この問いは斉一性原理を前提としています。というのも、市場と言うものは常に効率性という性質を備えているのか、という問いなので、時間とともに支配している法則が一定であることが前提になっています。この問いに答えるためには、ありもしない斉一性原理があたかもあるかのように議論せざるを得ません。「斉一性原理が成り立っていないため、その問いは不毛です」と答えてしまうと、「単に分からないって言っているだけ」ととらえられてしまう、そういうのを先生方は嫌がって、なんとか答えを出そうとしているのかもしれません。
経済学、社会科学にはありもしない斉一性原理を前提とした主張がなされる場合が少なくありません。それは斉一性原理を前提とした問いが生んでいるのかもしれません。例えば、「この政策はこの結果を生むのか」という問いがよくなされ、学術的な検証結果が、政策論争に使われる場合があります。斉一性原理を前提とした問いに答えるための研究が社会に役立つ研究として評価されがちで、それに答えようと不毛な議論に足を踏み入れてしまうのかもしれません。経済や社会において、「常にこうするのがいい」という主張を見かけたら、気を付けたほうがいいでしょう。

結論

「市場は効率的だ」、「市場は非効率だ」といった主張からは距離を置くべきでしょう。市場には自然科学のような普遍的な法則はほとんどありません。あるとすれば、すべての株式を手に入れればその会社を手に入れられることぐらいでしょうか。いずれにせよ、どこでも常に、完全に効率的または非効率などあり得ないのです。ただ、今ここは、以前や違う場所と比べ、効率性がどれくらい違うのか、という議論はできるとは思います。もう50年も徒労を続けているのですから、議論の進め方そのものを考え直すべきでしょう。


(*1) Fama, F. Eugene, "Efficient Capital Markets: A Review of Theory and Empirical Work", Journal of Finance, Vol. 25, No. 2, pp. 383-417, 1970.

(*2) 伊藤幹夫、 "効率的市場仮説をめぐる論争はなぜ決着しないのか"、 三田学会雑誌、第100巻3号、pp.793-813、慶應義塾経済学会、2007

(*3) Lakatos, Imre, "The Methodology of Scientific Research Programmes: Volume 1: Philosophical Papers", Cambridge University Press, 1980,
邦訳:村上陽一郎、井山弘幸、小林傳司、横山輝雄訳、"方法の擁護 科学的研究プログラムの方法論"、 新曜社、1986

(*4) 正確には同じ加速度

(*5) 朝永振一郎、"物理学読本"、みすず書房、1969

(*6) "空気がなければ本当に羽は鉄球と同じ速度で落下するのか世界最大の真空チャンバーで実験"、 Gigazine, 2014/11/5

(*7) 風巻紀彦、" マルチンゲール理論入門"、エコノミスト社、2000

(*8) Fama, E. F. and K. R. French, "The Cross-Section of Expected Stock Returns", Journal of Finance, Vol. 47, No. 2, pp. 427-465, 1992



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